いまのような激動の時代には、永ちゃんに見るような〈成りあがり〉精神は、非情に大切なことのように思う。
大志を抱き、独立独行、あくまでも自分の才能と責任において、ものごとを達成する。
激しく強く、ときにはナイーブに優しく、一歩一歩確実に階段をのぼっていく。
勝負するときは、それこそ体当たりで、でも沈着冷静に頭を使って、一気にたたみかける。
そんな生き方が、いま求められている。
優しさの時代から、タフネスの時代へ、そして平均的幸福感から個性的満足感の時代へ。
その昔ぼくは、永ちゃんのようにスーパースターとはいわないまでも、成りあがりたかった。
だから、『成りあがり』という本は、すりきれるほど読んだ。ある意味で、ぼくの青春のバイブルだった。
そこに書かれている一字一句が支えとなり、励みとなった。
そしていままた、読み返してみる。
「方向を見失った時、人間はいちばん苦しい。オレには音楽があった」
まるで、いまの日本人にメッセージしているみたいだ。
方向を見失ったわれわれに、何が必要かといえば、それは夢である、と永ちゃんは言ってるようだ。
そこまで知るよしもなかった当時のぼくは、とにもかくにも矢沢永吉に夏を感じた。
トレードマークのE・YAZAWAのタオルを首にかけ、大観衆をまえにシャウトする。
街でも海でも、彼の歌声は聞こえた。
友人数人と日本海へ泳ぎに行ったときも、砂浜のラジカセから聞こえてきた。
〈幻でかまわない/時間よ止まれ……〉
越前海岸の道を、免許とりたての友人の運転で激走するときも、この曲がカーラジオから流れてきた。
紺碧の海面に、曲りくねったストローのような波頭が何本も見えた。
「どうしたら、永ちゃんのように成りあがれるのだろう」
ぼくは波間にかすむ夕日を、遠い目でみつめ、そんなことばかり考えていた。
彼は、世間という引力圏から猛烈なパワーで脱出し、星になることができたのだ。
そこまでいかなくとも、せめて自分が自分であることを忘れないような、生き方ができれば、とぼくは思った。
なにも世間的に成功すること、人に認められることだけが人生ではないが、それを望む者にとって、それを手に入れたいと考えるのは、ごく自然なことだろう。
「そんなにあくせくしないでいいよ」とか「マイペースでいこうよ」とか、いま流行の慰め方をされても収まらない者は、行くところまで行くしかない。
そうじゃなければ、その人は、どこまで行っても自分に納得しないし、癒されないと思う。
やるだけやって、そのうえで分別をつけても遅くはないはず。
永ちゃんのように、“引力圏”を脱出できるかどうかは、多段式ロケットが宇宙へ飛び出すときのように、エネルギーをひたすら蓄えておいて、ここ一番で一気につき進むこと。
野球のバッティングでいうなら、“タメ”と瞬発力による、ジャストミートである。
才能を発揮できずにいる人の多くは、ここが圧倒的に弱い。
“タメ”を作るまえに諦めるか逃げるかして、その芽を自ら摘んでしまう。
使いふるした言葉かもしれないが、自分のためにする、辛抱とか忍耐が足りないのだ。
ビートルズの歌にもあるように、人生は長いようで非常に短い。
いまあなたの周囲に存在する時間も、止まってはくれない。
だから、何者かになりたい、何かをなしとげたいと真剣に願うなら、キレたり拗ねたりしている場合ではない。
自分が納得するまで、反撃するのである。タイミングさえあえば、ジャストミートできる。
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