◎そこにいつも歌があった(32)
『ひだまりの詩』


 作家の五木寛之さんが『大河の一滴』のなかで、我われが戦後五十年、追求してきた世界は乾燥した世界であり、湿ったもの、濡れたものは非常に嫌われ、その代表が演歌・義理人情だった……というようなことを述べられているが、まさにその通 りだと思う。

 その証拠に、いまや日本の演歌はジリ貧状態で、売上からしても、全盛を誇るリズム系(ダンスミュージックあるいはビジュアル系)音楽の足元にも及ばない。
メロディーよりもリズム、涙より乾いた笑顔なのである。

 テレビやラジオで大々的に流れるのは、若者向けの音楽ばかりで、演歌を流す番組といえば、「ニッポンの演歌大全」とか何とかいった“限定お届け商品”のような扱いでしかない。
いわば演歌は、中心勢力から追いやらた、“落ち武者集団”のようでもある。

 けれど、涙・情緒・メロディの時代がもうすぐ来ることを予感させる、いくつかの予兆はすでに顕在化している。
そのひとつが、ル・クプルが歌った『ひだまりの詩』である。

 感動したのはぼくらのような世代だけでなく、若者の多くもそうだった。
テレビドラマの挿入歌ということもあるけど、それだけではない情とかぬくもりといったウエットなハートに、幅広い支持が集まったのである。

 アレンジとか演奏形態は、たしかにポップスの範疇に入るものの、その心底には演歌に通 じるものがある。
歌手やアレンジが違ったら、演歌にもなりえる曲だと、ぼくは思う。

 かつて愛した人を、いまも遠くから想い、その人のぬくもりと優しさを忘れず、これからもひたむきに生きてゆくことを切々と歌う……そんな歌なのだ。

〈広い空の下 二度と逢えなくても生きてゆくの こんな私のこと心から あなた愛してくれた まるで ひだまりでした〉

 しかしながら、本来日本の歌の本流であるはずの演歌は、そのメロディアスな旋律、歌詞の内容ともに、こうした叙情派ポップスにその座を明け渡したままだ。
ちょっと前までは、鳥肌がたつような感動の演歌がいっぱいあったというのに……。
ガンバレ演歌、そして日本の叙情派ソング。